「さあ、何が飲みたいんだ? オレンジ・ジュースか?」
1985年3月2日、ついに会うことのできたマイルス・デイヴィスが最初に発した言葉である。この日、ぼくはロサンジェルスのマリブにある彼の別荘にいた。
居間に通され、待つこと数分。マイルスは明るいレンガ色のジャンプ・スーツ姿で登場した。2階から階段を降りてくる姿を見て、ぼくは思わず拍手をしそうになった。
20年近く憧れ続けてきた人物が、すぐ目の前でにたりと笑いながら立っている。そのマイルスが、オレンジ・ジュースを用意し、自分はペリエをグラスに注ぎ、いきなり、「いったい何をさせようっていうんだ。写真を撮るのか? それじゃ洋服を変えなきゃ駄目だ」などと一方的に喋り始めた。
何度もレコードで耳にしていたあの声だ。押し潰されたような、しわがれたかすれ声。威圧感をひしひしと感じるものの、思いのほか雰囲気は和やかだ。暖かい空気が部屋を包んでいる。大きな窓をから見える太平洋が勇気を与えてくれた。
「まずはあなたが絵を書いているときの表情や手の動きを撮りたいんです」
思い切ってそう切り出してみる。こちらのリクエストに対して、マイルスは画用紙の束をぼくに無言でわたす。封を切って1枚を差し出すと、「よく見てろよ」といわんばかりにこちらに目をやり、緑、赤、黒といった色のペンで、女性をモチーフにした彼ならではの絵を描き始めた。
マイルスの絵は、演奏同様、躍動的でリズム感があり、空間を効果的に利用している。またたく間に簡単な絵を3枚仕上げると、「さあ、持っていけ」といわんばかりに差し出した。
次に、カメラマンが「他の部屋でも写真を撮りましょう」というと、それには答えず、すかさず「オレの車が見たいだろ」と返事が返ってくる。ガレージに案内され、ぼくを助手席に乗せて、彼自身が黄色のフェラーリを運転してくれる。何という体験をぼくはしているのだろう。思わず、頬をつねってみたくなった。
車から降りると、「今度のレコーディングは最高だった。聴きたいか?」とポケットから1個のカセット・テープをとり出す。こちらからいい出さなくても、ちゃんとマイルスは希望をかなえてくれる。こうした振る舞いは、その後に会ったときも同様だった。
マイルスは、まるで子供が自分の宝物を自慢するかのように、次から次へとこちらが喜びそうなものを持ち出してくる。こんなにサーヴィス精神が旺盛だとは思わなかった。
30分の予定だったインタビューはこうして1時間以上にわたって続けられた。そろそろ、引き上げる潮時だ。

Kind of Blue
Miles Davis
ソニーミュージックエンタテインメント
(1999/05/21)
「これからどうするんだ」
マイルスがこちらの予定を聞いてくる。そこで、夜の飛行機でニューヨークに戻ることを伝えると、それまではここにいろというではないか。まだ話し足りないのだろう。その後は、ぼくが整形外科の医者であることを告白し、彼にリハビリテーションの仕方を教える展開になった。
当時のマイルスは、手術をした股関節の状態が思わしくなく、痛みと関節の拘縮から足を引きずっていた。そこで簡単なリハビリのメニューを書いてわたしたりもした。こうして、インタビューは大成功のうちに終えることができた。
あとでいろいろな関係者からいわれたことがある。マイルスが何度かインタビューをキャンセルしようとしたのは、こちらの熱意を確かめるためだったというのだ。
つまりこのときの一連の出来事で、彼は本気でこちらがインタビューしたいのかどうかを確認していたのである。そして、ぼくはそのハードルを越えることができたようだ。
これがきっかけで、マイルスとは毎年のように会うことになる。そうした話もいずれは紹介したいと思っている。

音楽ジャーナリスト、整形外科医、DJ、音楽プロデューサー。
ニューヨーク大学大学院在学中にアート・ブレーキーやブランフォード、ウイントンのマルサリス兄弟をはじめ、多くのミュージシャン、音楽関係者と交流を深める。帰国後、『スイングジャーナル』誌の連載を持つと共に、JAZZを中心に約3000本のライナーノーツを手がける。