愛しのJazzMan
トランペッターのウイントン・マルサリスは、留学時代にアパートが隣同士だったこともあって仲がよかったミュージシャンのひとりだ。いまや「ジャズ@リンカーン・センター」のクリエイティヴ・ディレクターにして、国連の民間大使で、ピューリッツアー賞も受賞し、さらには世界中の大学から博士号を授与され、その数は50を超えるという。ジャズの世界から飛び出して、すっかりアメリカの文化人になってしまった。
ぼくがウイントンと知り合ったのは、いまから25年前のこと。そうか、25年になるのか。感慨もひとしおだ。
当時のウイントンは、アート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズに兄のブランフォードと参加し、大きな話題に包まれていた。
ジャズの故郷ニューオリンズからジュリアード音楽院に入学するためニューヨークに出てきたのが1979年のこと。大学に通うかたわらジャズ・メッセンジャーズで活動するようになり、またたく間に《30年に一度現れるか現れない天才》などと呼ばれ、センセーショナルな話題に包まれた。
飛ぶ鳥を落とす勢いにあったのが、知り合ったころのウイントンである。ただしそのときでさえ彼は21歳の若者で、スター街道を歩き始めてはいたものの、素顔はどこにでもいる若者だった。
いや、正確にいうなら、どこにでもいる若者とはちょっと違う。実に真面目なのだ。何が真面目かといえば、これからの黒人はどうあるべきか、なんてことばかりを考えている青年だった。
当時(1982年前後)のアメリカは、ドラマーのアート・ブレイキーにいわせれば《黒人の新人類》が登場してきた時代である。ウイントンにしてもブランフォードにしても、それまでの黒人のイメージを一新させる生活態度に、ぼくも時代の推移を強く感じたものだ。
そんなウイントンのアパートには、志を同じくする若手黒人ジャズ・ミュージシャンがいつも出入りしていた。アパートはグリニッチ・ヴィレッジでも一番賑やかなブリーカー・ストリートのちょっと外れにある。近所にはいくつものジャズ・クラブがあったので、そこに出演するミュージシャンがその前後に立ち寄っては雑談をしたりセッションをしたり、さらには楽器を預けていったりと、ちょっとしたサロンになっていた。
そんな場所に出入りができたのもラッキーだった。現在、ぼくがジャズや音楽の世界で仕事をしているのも、ウイントンと知り合い、彼のアパートに出入りしていたことが大きく関係している。
そういうときにいつも熱心に語り合っていたのが、「自分たち黒人はどうあるべきか」ということだった。まるで《黒人生活向上委員会》のような感じである。社会の鼻つまみ者のように思われている黒人の立場を改善したいと考えていたのがウイントンたちだ。そのためにはどうすればいいのか?
ミュージシャンである彼らが出した結論はこうである。ステージではきちんとしたマナーで演奏し、ジャズの伝統や先達に敬意を表すべくスタンダードや彼らが書いたオリジナル曲も演奏する。
ジャズ・ミュージシャンといえば、「酒・女・麻薬」といったイメージが強い。それを払拭したいというのが彼らの考えだった。そこで、ステージでは必ずスーツにネクタイを着用し、きちんとアナウンスをし、礼儀正しく接するようにしたのである。しかし、演奏がつまらなければ、そんな努力は水の泡と消える。
ウイントンたちがすごかったのは、そうした表面上のことはともかくとして、圧倒的に素晴らしい演奏を繰り広げたところにある。彼が登場してくるまでの10年間は、4ビートのジャズがフュージョンによってシーンの片隅に追いやられていた。
そんな時期に、ウイントンを先頭に若いミュージシャンが伝統的な4ビート・ジャズをモダンな感性で演奏してみせたのである。彼らの礼儀正しいマナーも好感を呼んで、あっという間にウイントンたちの演奏は大きな評判を呼ぶようになった。
ウイントンがすごかったのはこれだけではない。そうした演奏スタイルやマナーが、先輩ミュージシャンたちをも刺激したのである。4ビートのジャズが商売になりにくくなった1970年代は、多くのヴェテラン・ミュージシャンや大物ミュージシャンまでがフュージョンに転向していた。
しかしウイントンたちのセンセーショナルな活躍もあって、再び4ビート・ジャズへの関心が高まってきた。その結果、かつて素晴らしい演奏を聴かせてくれたミュージシャンにも4ビートのジャズを演奏する場やレコーディングのチャンスが増えるという現象が生まれたのである。
ウイントンの登場は、単なる才能豊かなミュージシャンが脚光を浴びただけのものとはまったく違う。彼の存在や演奏がムーヴメントを巻き起こしたからだ。そんな人物と、偶然ながら隣人になり知り合えたとは、なんとラッキーだったことか。そしてぼくの人生も、ウイントンとの出会いによって大きく変わっていく。









