愛しのJazzMan
ケニー・ドリューはハード・バップ派のピアニストとして超一流の腕前を持っていた。めりはりの効いたタッチと程よいコード・ワークが絶妙なバランスを示し、どんな曲を弾いても彼は平均点以上の内容を聴かせてくれる。1960年代までは比較的不遇を託つていたが、1980年代以降は日本のレコード会社が個性に見合う作品を積極的に制作したことから、本来の実力を発揮するようになった。それ以前の作品は通好み、以後の作品は初心者向けといったところか。
そのドリューが突然の旅立ちをしたのは、1993年8月4日のことである。しばらく前から罹っていた肺および咽頭がんが死因といわれているが、少なくともぼくたちの前ではそんな印象をまったく感じさせない元気な彼だった。
日本のジャズ・ファンがこよなく愛していたドリューだが、彼も同じように日本と日本のファンを心から愛していた。そのドリューが熱烈なラジコン飛行機のマニアだったことはあまり知られていない。この道でも優れた技術のある日本は、ことさら彼の気になる場所だった。来日するたび、原宿の模型店に通っていたことが懐かしい。
いまでは街並みもすっかり変わってしまったが、ドリューが頻繁に来日をするようになった1970年代後半の原宿には、駅からすぐそばの表参道に有名な模型店があった。正確な場所は覚えていないが、「クエスト・ホール」が入っているビルのあたりだと思う。彼はそこの常連だった。
ぼくも何度かお供をしたことがある。そんなときのドリューは、まるで子供がおもちゃを買いに行くような感じで浮き浮きしていた。ぼくも木製のモデル・プレーンから始まり、プラ・モデルに凝り、最後は飛行機ではなかったがラジコンの自動車で散々遊んだ口である。模型店に行くのは決して嫌いじゃない。
そんなぼくから見ても、ドリューの凝りかたは半端じゃなかった。前もって紙に書き出しておいた部品をひとつずつショウケースから出してもらい、じっくりと吟味をする。面白いのは、英語が話せない店員ともちゃんとコミュニケーションが取れていたことだ。どの世界でも似たり寄ったりだと思うが、共通の趣味があれば、言葉は通じなくても以心伝心ができる。
ぼくの英語だって決して褒められたものではない。一般的なレヴェルでいうなら、かたこと英語に毛が生えた程度だ。それでもミュージシャンとは意思の疎通も図れるし、インタヴューも何とかこなせる。好きなことならどうにかなるものだ。
音楽の話もしたけれど、ドリューとは模型の話もいろいろとした。アメリカの出身だが、1960年代初頭からヨーロッパに移住した彼は、ぼくが知り合ったころはデンマークのコペンハーゲンに住んでいた。フロリダにも老後のために家を買ったドリューは、その両方に自慢のラジコン飛行機を数機ずつ置いていた。一番大きなモデルは全長が3メートルで、それを7チャンネルの無線機で操縦するという。ヨーロッパでは大会にも何度か出場し、そこそこの成績も収めていたらしい。
ジャズ・ミュージシャンに定年はない。やれるところまでやって、自然に仕事から遠ざかっていくのが一般的だ。ところがドリューは引退を考えていた。余生はラジコンでヨーロッパとアメリカの大会に出ることを計画していたのだ。そのために、日本に来てはせっせと必要な部品や本体を買い揃えていた。
「日本の模型は精密だし、このクラスになると、模型というより本物の機械だからね。その点でも日本のテクノロジーは優れている。だから、来るたびに必要な部品を買い込むわけさ」
こんな話を嬉しそうにしてくれたドリューの笑顔がいまもときどき思い出される。

ケニー・ドリューとの2ショット(1984年)
関連情報
お奨めCD●「Kenny Drew/Undercurrent」(Blue Note)内容(「CDジャーナル」データベースより)
都会的に洗練されたプレイが人気のドリュー。彼の4000番台唯一のこのアルバムは、ハード・バップ・ジャズの最高峰と豪語できるほどの仕上り。極上の雰囲気が漂います。
小川隆夫の本●「ジャズマンが愛する不朽のJAZZ名盤100」チャーリー・パーカーからノラ・ジョーンズまで、163人が本音で語る究極の100タイトル。「マイルスはあの名盤をどう思っているのか?」
筆者が過去にインタビューしてきた多くのミュージシャンの内、163人のさまざまなアルバムに対するコメントを集めたもの。いわば「ミュージシャンが紹介するジャズの名盤集」。






