小僧com
50,60はハナタレ小僧。人生の後半戦をアクティブに過ごす元気な小僧たちのコミュニティ。

       ようこそ ゲスト様        

  フォントサイズ変更

エンターテインメント 愛しのJazzMan

Benny Golson ベニー・ゴルソン 文=小川隆夫 JAZZを中心に活躍する音楽ジャーナリスト小川隆夫さんが、これまでに出会い、言葉を交わしたミュージシャンたちの生の声を通して、JAZZの魅力を伝えるシリーズです。

マイルス・デイヴィスのグループを1960年4月に退団したジョン・コルトレーンは、しばらくして初のレギュラー・カルテットを結成する。メンバーはピアニストのマッコイ・タイナー、ベーシストのジミー・ギャリソン(当初はスティーヴ・デイヴィス)、ドラマーのエルヴィン・ジョーンズという面々である。カルテットは、マイルスが1964年に旗揚げするニュー・クインテットと並び、のちに1960年代を代表する名コンボと呼ばれるまでになった。
コルトレーン・カルテットのメンバーの中で、その後もっとも重要なミュージシャンのひとりに育っていくのがタイナーである。彼とコルトレーンの結びつきは久々の再会が縁になった。タイナーが故郷のフィラデルフィアからニューヨークに出てきたのは1959年のことである。同郷のテナー・サックス奏者ベニー・ゴルソンの推薦で、ゴルソンとアート・ファーマーが新たに結成したコンボのジャズテットに入るためだった。

タイナーはそのためにポンコツ車でフィラデルフィアからマンハッタンに向かう。家財道具をすべて運ぶわけにはいかなかったが、取り合えず身の回りの一切合財を後部座席とトランクに入れられるだけ入れて出発したのである。ところがあと一歩のところで車が故障してしまう。
マンハッタンとは目の鼻の先のニュージャージーのターンパイクで途方にくれていたところをハイウェイ・パトロールに助けられ、何とかゴルソンのところまで電話をかけて救いを求めることに成功した。ところが生憎どうしても抜けられない大事な仕事があって、彼は迎えに行けない。そこで、やはりフィラデルフィアに住んでいたことのあるコルトレーンに迎えを頼む。
コルトレーンとタイナーは、コルトレーンがニューヨークに出る直前、フィラデルフィアで活動していたカル・マッセイのバンドで一緒だった。ノース・カロライナ出身のコルトレーンだが、少年時代にフィラデルフィアに移り、共通の友人を介してアマチュア時代からゴルソンとは音楽仲間だった。そのゴルソンを中心にしたサークルの中で、タイナーとコルトレーンは出会っていたのである。ひょんなことから再会を果したコルトレーンは、車の中で世間話をしながら自分の独立計画をタイナーに打ち明ける。しかしこのときはマイルスが認めなかったため、コルトレーンの独立は残念ながらかなわなかった。晴れて独立できたのは翌年のことだ。早速タイナーに参加を打診するが、ゴルソンのお陰でニューヨークに進出できたタイナーは、ゴルソンに対して恩を仇で売るようなことはできない。
そこで、コルトレーンがゴルソンに頼み込んだのである。年齢はコルトレーンのほうが少し上だが、キャリアではゴルソンが一枚も二枚も勝っている。親分肌のゴルソンとしては、可愛い弟分に頼まれては断るわけにいかない。本心はタイナーを手放したくなかったが、そこはコルトレーンの新たな門出を祝し、心よく退団を認めたのである。
そもそもマイルスのグループにコルトレーンを紹介したのもゴルソンである。このときも、実は自分がマイルスのバンドには入りたかった。そこをぐっとこらえて、無名の新人だったコルトレーンを紹介し、太鼓判を押してマイルスに推薦したのである。
ゴルソン自身、有能なテナー・サックス奏者にしてジャズ界きっての名作曲家のひとりとして知られている。その優れた作曲を提供したことで、ジャズ・シーンにおけるスターの地位を確立したのが、これまた同郷のトランペッターであるリー・モーガンだった。
ゴルソンの盟友で天才トランペッターと謳われたクリフォード・ブラウンが突然の交通事故によって命を落としたとき、それを追悼して彼は「アイ・リメンバー・クリフォード」という美しいバラードを書き上げている。この曲は、モーガンこそブラウンの後継者に相応しいと考え、彼にレコーディングさせたものだ。その結果、すでに評判を集めていた新人のモーガンだったが、その地位を磐石のものとすることに繋がった。

ゴルソンは、このように才能のある人材を紹介することに長けていた。コルトレーンのカルテットに話を戻すなら、タイナーのほかに、このときは優秀な新人ドラマーのエルヴィン・ジョーンズまで推薦したのだから、親切心には頭が下がるばかりだ。ただし「あのときコルトレーンに迎えを頼むんじゃなかった」とは、あるときぼくに語ったゴルソンのボヤキである。


ベニー・ゴルソンとの2ショット(1993年)

ベニー・ゴルソンとの2ショット(1993年)



関連情報

『The Jazztet/Meets The Jazztet』 お奨めCD●『The Jazztet/Meets The Jazztet』(Argo)
内容(「CDジャーナル」データベースより)
カーティス・フラー/ブルースエット』や『アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ/モーニン』で音楽監督を務めたベニー・ゴルソンが、アート・ファーマーやカーティス・フラーと結成したのがジャズテット。売りものは三管編成による《ゴルソン・ハーモニー》である。低音部を強調した三度進行のハーモニーや、ユニゾンで演奏される独特の響きが痛快この上ない。(解説・小川隆夫)

となりのウイントン 小川隆夫の本●「となりのウイントン」
「あの頃のマンハッタンの匂いがプンプンして懐かしい気分になるよ」(日野皓正氏の帯コメントより)。
医者とジャズ・ジャーナリスト、二足の草鞋を履いて、いつのまにか20年以上が過ぎてしまった…。ジャズ好きが高じてマンハッタンに留学してしまった青年外科医。そんな若き筆者と親交を結んだミュージシャンたちとのエピソードを綴った、初めてのエッセイ集。

小川隆夫(おがわ たかお)Takao Ogawa

音楽ジャーナリスト、整形外科医、DJ、音楽プロデューサー。

ニューヨーク大学大学院在学中にアート・ブレーキーやブランフォード、ウイントンのマルサリス兄弟をはじめ、多くのミュージシャン、音楽関係者と交流を深める。帰国後、『スイングジャーナル』誌の連載を持つと共に、JAZZを中心に約3000本のライナーノーツを手がける。

小僧comアドバイザリーボードメンバー小川隆夫のJAZZブログ「Keep Swingin'」

 小僧SNSへ参加しよう!!

小僧SNSには、小川隆夫さんのコミュニティがあります。
小川さんのコミュニティ「ONGAKUゼミナール」へは こちら

※閲覧・参加するには小僧SNSへのご登録が必要になります。小僧SNSとは


この記事について是非あなたのご意見を聞かせてください。ご意見はこちらへ

バックナンバー

#040
マイルス・デイヴィス(tp)

#039
ハンク・モブレー(ts)

#038
ビリー・エクスタイン(vo)

#037
ベニー・カーター(as)

#036
マーサー・エリントン(tp, band leader)

#035
Tsuyoshi Yamamoto(p)

#034
KANKAWA(org)

#033
マイケル・ブレッカー(ts)

#032
某日本人カメラマン(photographer)

#031
ロレイン・ゴードン(owner of Village Vanguard)

#030
マイケル・カスクーナ(producer)

#029
ブルース・ランドヴァル(president of Blue Note Records)

#028
マッコイ・タイナー(p)

#027
ベニー・ゴルソン(ts)

#026
デヴィッド・サンボーン(as)

#025
ミロスラフ・ヴィトゥス(b)

#024
ジョン・スコフィールド(g)

#023
アンソニー・バルボーザ(photographer)

#022
ジョン・コルトレーン(ts)

#021
日野皓正(tp)

#020
ホレス・シルヴァー(p)

#019
マーカス・ロバーツ(p)

#018
ケニー・ギャレット(as)−後編−

#017
ケニー・ギャレット(as)−前編−

#016
デヴィッド・マシューズ(arr、p)

#015
ビル・エヴァンス(p)

#014
ソニー・ロリンズ(ts)

#013
チック・コリア(p)

#012
アート・ブレイキー(ds)

#011
ハービー・ハンコック(p)

#010
ギル・エヴァンス(arr)

#009
ケニー・ドリュー(p)

#008
ブランフォード・マルサリス(ts、ss)

#007
ウイントン・マルサリス(tp)−後編−

#006
ウイントン・マルサリス(tp)−前編−

#005
ジミー・スミス(or)

#004
アルフレッド・ライオン(producer)

#003
マイルス・デイヴィス(tp)−後編−

#002
マイルス・デイヴィス(tp)−前編−

#001
チェットベイカー (tp,vo)