第28回「今月の小僧」木村威夫さん

自己否定してこそ、前進がある

日活芸術学院で講義中の木村先生

10月のある日、インタビューのお願いをしていた私の携帯に木村先生から直接で電話が入る。「来週セミナーをやるから聞きにいらっしゃい」とのこと。これ幸いと三軒茶屋まで出かけいった。直前に腰を痛めたとお聞きしていたので心配したが、杖をつきながらもしっかりと歩いて登壇。ご自身が美術監督を務めた、黒木和夫監督最後の作品「紙屋悦子の青春」(2006年)を題材に、映画美術に対する思いを熱く語った。
毎日芸術賞特別賞を受賞したこの作品。お金を使わずどこまで表現できるかへのチャレンジだったという。戦時中の話であり、その時代の閉塞感を出すために、家の前に土手を築き、遮断された広がりのない空間をスタジオに作った。
土手にはすすき、家の庭には桜の木が花をつける。季節が混在する中で、スタッフからは不安の声があがる。
また、土手の上に見える電柱の横木は通常よりずっと太い。これも美術スタッフからは「電柱では有りえない」との声もあった。土手の向うは黄泉の国。そして電柱は十字架。当時身近に迫った「死」を表現したかったのだ。
「今までのしきたりや常識をすべて捨てたんです」という。80歳を超えて「これまで美術監督・木村威夫としてやってきたことを全部否定する。その自己否定から、次の新しいものが生まれてくる」のだと。
餞別と火災保険
20代前半、それまでの舞台美術の仕事から映画の世界へと転身。1941年、当時の日活に入社。翌年日活は大都映画、新興キネマと合併して大映となる。 ちょうど太平洋戦争の真っ只中。徴兵検査では丙種合格だったこともあり、召集はされないだろうと高を括っていたら、1944年の夏に赤紙が来た。ブラインドを降ろした、どこ行きかも分からない列車に乗せられ、着いたところは横須賀の海軍基地。海軍に配属される前の猛訓練を受けるが、結局海軍には入れないまま帰されることになった。「情けなく、恥ずかしい思い」で東京に帰ってくるが、懐にはもらった餞別がそのまま残っている。餞別をくれた人たちには「返します」と申し出たが、みんなそのまま取っておけということで、当時の若者にとっては大金が手に入った。「これが我が人生、運の付きはじめ」と笑う。
1945年に入ると、空襲が激しくなり、3月10日の大空襲は免れたものの、5月25日の空襲で焼け出される。着の身着のまま、撮影所が所有するアパートになんとか転がり込んだ。
ある日新聞を見ていたら、空襲によって家を焼かれた人へ火災保険が支払われるとの記事を発見。証書を持って京橋の事務所まで出かけていくが長蛇の列。それでも4000円の保険金のためと並んでいると空襲警報が発令された。みんなクモの子を散らすように防空壕に逃げ込み、もうどこにも入るスペースがない。「もう何とでもなれ!」と思って、窓口の前で待っていると警報は解除され、窓口が開いてすぐに保険金を受け取れた。
「ここでも、運が良かったね」と先生。家が空襲にあったとき、先祖の位牌はなんとか持ち出した。きっとそれが、このことをはじめ、その後の人生に幸運をもたらしたに違いないという。
ネオンサインが3度点滅
終戦後すぐ「海の呼ぶ声」で美術監督デビューを飾るが、これは戦時中に撮影し、お蔵入りになっていた作品で、戦後の人たちには受け入れられなかった。その後も、なんだかディテールに凝るし、変わったセットは作るしと、スタッフや監督からは敬遠されてくさっていたが、次第に若手に認められ、ついに有名監督からも声がかかるようになる。
1954年、映画制作を再開した日活に移籍し、その後は鈴木清順監督をはじめ、日活の黄金時代を支える監督たちと、多くの作品を残す。
ところが、次第に業績が落ち込んだ日活は70年代初めロマンポルノへの移行を表明。ロマンポルノをやるか、辞めるかの選択を迫られることとなった。
「さあどうしようか」と悩んでいると、ネオンサインのように目の前に「フリー」という言葉が点滅したという。次の日も、その次の日も。
1972年、当時としては珍しいフリーの美術監督となった。その話を聞きつけた熊井啓監督からさっそく「忍ぶ川」の話が持ち込まれる。フリー第1作は、日本の各賞を総なめにする話題作となり、美術監督としての名を不動のものとした。
次の作品も監督作品

「夢のまにまに」撮影中

フリーとなった後も、若手からベテランまで多くの監督の作品に美術監督として参加し、日本アカデミー賞美術賞の常連となる。そんな美術監督して確固たる地位を築いた先生が、80歳を過ぎて何故映画監督となったのか。
「撮らざるを得ない状況になっちゃったからね」。
2004年、木村威夫大回顧展というイベントがあり、記録映画を作ろうという話が持ち上がる。その監督がいない。「先生お願いします」ということで、急遽撮ることとなった。それが「夢幻彷徨」だが、この作品記録映画のスタイルを逸脱している。ただ、先生の美術家としての思いを記録する作品と思えば、納得できるかもしれない。
常に自己否定して前進する。美術家としての思いが、「自分の思いを具現する」「思想を伝達する」という思いに凝縮した時、映画美術という枠組みすら、不要のものとなったのかと思う。「まわりの皆から、映画監督だけはするなと言われていたんだけど」、「どんどんストーリーが出てきちゃうからさ」、次の作品もやはり監督としての作品になりそうだ。
ここから出なおします。

映画「夢のまにまに」

先生との出会いは、1986年公開「夢みるように眠りたい」(林海象監督)だった。製作費600万円の超低予算映画だったこの作品を何故引き受けようと思ったのか、今回あらためて尋ねた。
「そりゃあ、若い人たちが集まって面白そうだったからね」。即答だった。

先生の好奇心も、想像力や創造力も、まだまだ飽くことを知らない。
「美的世界を追求したら、無になるかもしれない」
「1930年代、西洋文学が行なった物語性を廃した作品作りを、映画で実験してみたい」
「また、ここから出なおします」
先日のセミナーでの言葉が、今も胸に響く。

先生についていけるかどうか甚だ不安ではあるが、いつまでもお元気で、私たちのずっと前を走り続けて欲しいと、心から思う。

インタビュアー:堀込多津子

プロフィール

木村威夫(きむら たけお) 木村威夫(きむら たけお)
1918年生まれ、東京都出身。 日本映画美術監督協会顧問。 日本映像協議会 JVA 対象審査委員長。 日活芸術学院学院長。 東京工芸大学芸術学部客員教授。 京都造形芸術大学芸術学部客員教授。
美術監督としての代表作に「雁」( 53、豊田四郎)、「祭りの準備」(75、黒木和雄)、「ツィゴイネルワイゼン」(80、鈴木清順)、「日本の熱い日々謀殺・下山事件」(81、熊井啓)、「タンポポ」(85、伊丹十三)、「夢みるように眠りたい」(86、林海象)、「少年時代」(90、篠田正浩)、「海は見ていた」(02、熊井啓)、「父と暮せば」(04、黒木和雄)等多数。
映画監督としては、「夢幻彷徨」(04)「馬頭琴夜想曲」(07)「夢のまにまに」(08)がある。

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