今月の小僧 第12回 山口利仁さん

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明るく照らし出された手術台。そこには隣に横たわる患者さんの手だけが載せられている。午前10時過ぎ、執刀医の山口先生は、この日すでに2例目となる「手根管症候群」という神経麻痺の手術を開始。左手の付け根近くの中央を切開し、腱と神経の癒着を剥がしていく。この癒着が原因とのこと。出血もほとんどなく、手術という現実感のないままほんの5〜6分で終了した。しかもその間、看護士さんからの入院患者への投薬確認や、外来患者への対応確認などに的確な指示を出しつつだ。
そして、その時すでにとなりのベッドでは、次の患者さんがスタンバイして先生を待つ。
毎週木曜日は手や足といった部位の手術日。この日も10例以上の予定がホワイトボードに掲げられていた。朝から夜までびっしりのスケジュールだ。その上、救急指定になっているため急患が運び込まれてくる。そうなると、夜の10時、11時まで手術が続くことも稀ではない。
「胃がね、消化しないんですよ」とこの間食事もせずに、手術→手術した患者さんやご家族への報告→手術の繰返し。
医者とはなんと不健康な職業かとの問いかけに「そうなんですよ」とあっさり認めつつ「でも患者さんを放っておくわけにはいかないからね」。医師としてのプライドと強い意志が、少ない言葉の中から伝わる。
こうして手術漬けの一日が終わると、車を飛ばして山梨へ向かう。いきつけの店で深夜の夕食をとるのが毎週木曜日の楽しみだ。
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周りを甲斐の山々に囲まれた旧白根町にその果樹園はある。ぶどう畑やさくらんぼ畑が点在し、訪れた時はちょうどさくらんぼの花が満開で、その受粉作業がピークとのことだった。
最寄り駅まで迎えに来てくれた先生は、この前の白衣や手術衣とはがらっと変わり、着古したシャツに作業用のズボン、そして穏やかな笑顔をたたえていた。
畑に着くとすぐに作業着をまとい、長靴に麦藁帽子、タオルで顔を覆ってブドウの木の消毒作業用トラクターに乗り込む。それが終わると、次は別の畑でさくらんぼの受粉作業。長い柄の先についたモップに他の種類のさくらんぼの花粉をつけて交配させる。他家受粉でないと結実しないため、手早い作業が必要とのことで、上を見上げながらの作業を黙々と続けていく。
受粉作業がひと段落したところで、ご実家にお邪魔した。大きな門の向こうに、きれいに修復された古民家が2棟、そして白壁の蔵が建ち、もう1棟工事中の土台がある。
代々名主を務める家系で、以前は大きな母屋が1軒建っていたところを、本人いわく20年計画で再構築中の7年目とのこと。古民家の内1軒は、旧母屋を半分にしたもので、300年前の梁や柱はそのまま残している。もう1軒は神奈川県三崎にあった古民家を移築したもの。こちらも、築450年という年代を感じさせる梁や柱をそのまま使って建て直した。一度建て、気に入らずにもう一度建て替えたというから、ここにも妥協を許さない強い意志が垣間見える。
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医師になることを決めたのは高校2年生の時。土いじりが大好きで、農業をしながら陶芸家になろうかなどと漠然と考えていた。ところがある日NHKテレビで一人の医師が紹介される。広島大学の生田義和講師(現名誉教授)だ。生田医師は4指を切断した大工さんの再接着術に成功したとのこと。そのニュースを見たとたん、彼の目標は決まった。医者になること、それも「手」の医者になることだ。
三重大学の医学部に進学。大学卒業後、当初の目標通り広島へ移り、「手」の医者としての修行に励み、生田医師と強い師弟関係で結ばれた。
そんなある日、同僚の医師達と飲みに行った席に電話が入る。「母が亡くなったのですぐに山梨に帰る様に」との伝言だった。ちょうど院長の母親がなくなった時の経緯を聞いていたところだった。あまりの偶然に言葉もなく、父親が自分を山梨に連れ戻すための仕掛けじゃないかと思ったり、全く実感がわかなかった。
翌朝一番の新幹線で東京へと向かう。広島駅を出てすぐ、山の上にある大きな寺の屋根を見上げて、初めて母の死を実感し、それから車中ずっと大声を上げて泣き続けた。車掌が心配してかけつけた。
母の死後、一人暮らしになった父親をなんども広島に誘うが、どうしても首を立てに振らない。そんな父親の体調に異変が生じた。父親の近くに居られるようにと広島の病院をやめ、新設の山梨医大に移る。
新しい大学、病院では、これまでの経験はほとんど評価されず、新人として一番下っ端の研修医からスタートするしかない。父親の近くには戻ったものの、毎日朝から深夜までの勤務で、なかなか父親の面倒も見られない。父の症状は気になったものの、そのままになってしまった。症状の悪化に気づいた時はすでに手遅れの状態だった。
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父を見送り、勤務する医局との軋轢が重なったこともあり、山梨に居ることに意味を見出せなくなった。病院を辞める決意をする。医局でのストレスから精神病者のようになり、転地療法もかねて、しばらくアメリカやヨーロッパの病院を回ることにした。現地では医療現場の状況をつぶさに見、先端技術の吸収に努めた。
帰国後開業を目指すが、限られた予算で現実的だったのが、都下唯一の農業振興地域である八王子市高月町だった。
交通の便は著しく悪く「こんなところ、患者なんて来るはずがない」というのが当初大多数の意見だった。しかし開業以来、手の外傷やスポーツによる外傷の再接着術、再建術を中心に地道に治療を続けるうちに、口コミで患者は増え、今では北海道から沖縄まで全国各地から患者が訪れている。手術は年間2500例という。
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八王子を選んだもう一つの理由は、やはり実家のある山梨に近いこともある。無人となった自宅や果樹園だが、八王子ならたまに帰って様子を見るのも便利だった。
果樹園は手入れもなにもしなくとも、時期が来れば果物を実らせる。実った果物を病院で患者や職員たちに自慢げに配った。美味しいと評判だった。
そんなある日、近所の認知症の老人が行方不明になった。近所の人たちが探し回ったのは、山口家の畑だった。なぜなら他の家の畑と違い、ここは手入れもされず草ぼうぼうだったからだ。老人が誤って入り込んでも不思議はないし、そのまま見つけられずに命に関ることもあるかもしれない。医師という人の命を預かる人間としてあまりの無知と不明を恥じた。
そこで、すべての下草を狩り、きれいに整備した。とたんに果物が実らなくなった。自然の大きな力、すべてのものが密接に関係しあう循環のサイクルを目の当たりにした。まさに600年続いてきた家や畑に宿る生命を、トラクターですべて断ち切ってしまったように思えた。開業して忙しいから仕方ないなどと言っている場合ではなく、ここを守り続けることこそ自分のすべきことではないかと悟った。
それ以来、近所の農家の先達を師匠に農業にも正面から向き合うことになった。
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高月整形外科は、もうすぐ病床数を増やして病院となる。今各地の整形外科病院がベッド数を減らしたり、なくしたりしてクリニックに形態を変えている流れとは全く逆を行こうとしている。外来も午前中だけで十分ではないかと言われているが、午後の診療を止めるつもりもない。 それはなぜ?との問いかけに、「手の外科として、日本有数の施設を作りたいという思いがあります」という。
一方山梨では、周りの農家が後継者もなく畑を維持できない状況にある中、ぶどうやさくらんぼなどの果樹園に加え、山に牧場を造成し豚の飼育も始めるという。「日本の農業は、担い手もなく瀕死の状態。いずれ世界の中で自給率をあげていかないと日本人は生きていけなくなる。大規模経営で農業の効率化を目指さなければならない」。そのために今はどんなスタイルが一番いいのかを模索中とのこと。「なんでも3年は死に物狂いでやってみるんです。それでダメだったら潔く諦める。いけそうだと思えば、10年は頑張ってみる。そんな繰り返しですよ」。そこには、科学者らしい冷静な判断力と、10年、20年計画で物事を進めるという農民らしい粘り強さが同居する。
なぜ、「手」の医者になりたかったのか、そして今「手」の医者と「農家」を同時にやっているのか?「作物は百姓の手から生み出される。農業は手間仕事なんですよ」という言葉にその回答があるように思う。代々受け継がれてきた農民としての血が、医療にも向かわせた。先生にとって、まさに「医」と「農」の源は同じなのではないかと。
左上:顕微鏡を使ったマイクロサージェリー
右上:「手根管症候群」の手術
左下:ブドウの木の消毒中
右下:さくらんぼの受粉作業
インタビュアー/写真:堀込多津子
山口利仁(やまぐち としひと)
東京手の外科・スポ−ツ医学研究所 高月整形外科理事長
81年三重大学医学部を卒業後、広島大学医学部整形外科に入局。90年アメリカ、ヨーロッパで研修を重ね、91年高月整形外科を開業、97年東京手の外科・スポーツ医学研究所を設立。手の外科、マイクロサージャリーを専門として診療を続ける。その傍ら、週末には実家のある南アルプス市で、両親から受け継いだ農地を荒廃から救うべく始めた果樹園にて、農業に従事。日本の農業が直面する課題を前に、現在大規模経営を目指し様々な試行を続けている。
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