今月の小僧 第13回 土屋國男さん、土屋成範さん

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足立区花畑。土屋鞄製造所の工房を訪ねることになった時、いただいた住所をもとにGoogleマップやYahoo地図で調べると、最寄り駅がない。1ランク倍率を落としてみてもまだない。最寄り駅は「六町」(つくばエキスプレス)と伺っていたが、その駅も見当たらない。どうしようと思いながら「六町」の駅から電話をすると、社長の土屋成範さんが車で迎えに来てくれた。
「いや〜分かりにくいところなんですよ」と恐縮しながらも慣れている様子。実はほんの数分で工房には着いたのだが、なんだかずいぶん遠くに来た感じ。
東京都内とは思えない町の雰囲気。なんとものんびりした界隈にその工房はあった(まもなく西新井の新工房に引越し予定)。質素だが、創った人のセンスがさりげなく伺える、お洒落な内装のショップも兼ねた木造の建物。「土屋鞄製造所」という1枚板の看板が存在感を放っていた。
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昭和28年。父國男は、中学の同級生に誘われ、社長が同郷である鞄製造の会社に就職を決める。中学卒業と同時に岐阜から上京。憧れの東京には着いたが、会社のあった足立区関原には当時まだ畑も田んぼもあり、思い描いた東京とは大きな違いだった。
まさに高度経済成長に足を踏み入れようという時代、会社も好景気の中、どんどん売上を伸ばしていた。特に鞄作りが好きだった訳ではないが、元々我慢強い性格で、なんでもやり通そうという気持ちが強かったこともあり、一時心が揺れたこともあったが、13年間その会社で働いた後、暖簾分けのような形で独立を決意。
会社では製造工程をスムーズに運ぶために必要な材料を揃えて職人に渡すという仕事だったので、独立のために製造工程そのものを学ぼうと1年限定で修行に出る。通常7〜8年かかるところを1年でなんとか習得しようというのだ。そこで部品も多く技術的には難しいが、製造個数が多く、デザインに大きな変化のないランドセルに的をしぼり、徹底的にランドセルの製造を学んだ。
1年後、ランドセル専業として独立。それからは従業員の生活を支え、自身の家庭を守るために、親会社の倒産などという大きな危機に見舞われながらも、こつこつと会社を維持してきた。
その間もっともたいへんだったのは、お金のことでもなんでもなく、自分の技術を磨くことという。1年の修行では得られなかった技術や知識を、その後は独学で身につけ、技術コンクールでの優勝を目指した。何回かの優勝を経験することで、ようやく自分の技術に自信がもてるようになり、将来への展望も拓けたという。
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順調に行くかと思われたランドセル製造だが、安い海外製品の流入等による鞄業界そのものの衰退、親会社の2度目の倒産、そしてなによりも少子化の波が押し寄せ、1988年ついに立ち行かなくなった。それまで他の会社で営業の仕事をしていた息子は、母の頼みで父親の会社の営業担当として入社する。24歳の時だった。
父親の技術の高さに対する信頼は揺るがなかったが、なかなか受け入れてもらえない。なんとかならないかと縁戚をたどって地方の生協に営業をかけた。そこで販売したミニランドセルのヒットが会社の窮地を救い、土屋鞄再生のきっかけとなった。
6年間使ったランドセルをそのままにしておくのは忍びない。そこから記念のミニチュアランドセルを作るというもので、これは材料も不要、高い技術力のある職人ならではできることだった。下請けという立場から、メーカーとしての誇りを取り戻したいという思いが実った。
ミニランドセルを作り始めた当初、1つのランドセルがミニランドセル用にと送られてきた。それは父親が独立後まもなく作ったもの。まるでサケが生まれた川に帰ってくるように戻ってきたランドセルに、父は複雑な思いだった。なぜなら当時の未熟な技術がそこここに認められたのだ。当然ミニランドセルの方が鞄としてのクオリティはずっと高いものとなった。
ようやく危機を脱したところで、新しいランドセル製造にも力を入れるが、生協だけを相手にしていてはどうしてもうまく売れない。息子はここで、工場からの直販というスタイルに大きく舵を切る。
まずは工房の近所の人たちにダイレクトメールで訴求することにした。工房の近くに住んでいる人たちなら、工房に来て、実際に職人が作っているところを見ることもできる。高い技術を自分の目で見、納得して買うことができると評判になった。次第にエリアを広げ、ついには全国から注文が殺到するようになる。
今は、ランドセル製造の高い技術力を活かした一般カバンでも人気を博し、売上では一般カバンがランドセルを抜いたという。
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土屋鞄製造所には、若者の姿が多い。ベテランの職人たちに混じって思い思いのカジュアルな服装の若者たちが、おだやかながら、真剣な表情で働いている。今の鞄業界でこんなに多くの若者がいる工場はないという。ほとんどが、親方一人の零細な工場で、跡継ぎも居ないところが圧倒的だ。
ここでは、ごく自然に小僧世代と丁稚世代が、同じ目標を共有した仲間としてのびのびと働いている。そんな環境が、職人になりたい若者たちをひきつけ、毎年多くの職人希望者が殺到する。
父は、そんな状況に嬉しいながらも一抹の不安を感じるという。それは、会社にはいい時も悪い時もあるのをよく知っているからだ。しかし、若者たちと一緒に働くことは刺激的で、自身の技術向上に役に立つことも事実。まだまだ技術を磨き、彼らにその技を伝えていく。そのためには一生現役と決めている。
息子は、父親をはじめとする日本の職人たちの高い技術力をできるだけ多くの若者に伝え、日本の革鞄をヨーロッパのブランドにまけないブランドとして確立することをミッションと考えている。そのためにも積極的に若い職人希望者を受け入れる計画だ。
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土屋鞄の工房に足を踏み入れると、工房は工場でないことが良く分かる。近代的とは言えないが、清潔で機能的な工房には、大きな騒音も悪臭も、大型機械の冷たさもない。ミシンや裁断機など人間の手で動かされるアナログな機械たちの音、職人たちの間に交わされている静かで熱いやりとりが、居心地の良い活気となって居るものを包む。
父がひとりで鞄作りを始めてから40年。工房には現在上は70歳から下は20歳まで、30名ほどが働いている。ベテランは若手に自分の持つ技術を惜しみなく伝え、若手はそれをあまさず取り込もうとする。一方若手が繰り出すアイデアや工夫にベテランが刺激を受け、自分の持つ技術をさらに高めていく。
父の夢は、日本一の製品を作り、技術を次の世代に伝え、皆んなで良い暮らしができること。堅実で質素な職人らしい夢。
息子の夢は、世界に日本の鞄を高級ブランドとして認知させ、2年半後にはNYにお店を出したいという。辣腕経営者らしい壮大な夢と計画。
両者の夢は微妙に違うが、父も息子も互いを尊敬し必要とする。そしてその思いは、工房のベテラン職人と若手職人の間にも横溢する。まさに小僧と丁稚の理想的な姿がそこにある。
左上:國男さんの作業風景
右上:スタッフと打合せ中の社長
左下:ウォールストリートジャーナルに掲載された記事
右下:整然として清潔な工房内
インタビュアー/写真:堀込多津子
土屋國男(つちや くにお)
株式会社土屋鞄製造所会長
岐阜県生まれ。中学卒業後鞄製造業に従事し、その後鞄製造一筋に半世紀以上。土屋鞄製造所の設立者。社長の座は息子に譲ったが、69歳の現在も会長として製造の現場に立ち、技術の向上と後進の指導に余念がない。
土屋成範(つちや まさのり)
株式会社土屋鞄製造所社長
1969年、東京都足立区生まれ。高校卒業後2年程、アメリカ、メキシコ、カナダを放浪。その後メキシコより輸入したシルバーアクセサリーの販売業を立ち上げるが、交通事故を機に廃業。その後機械メーカーで営業職に従事した後、24歳より土屋鞄製造所に入社。現在に至る。







