今月の小僧 第16回 奥田明久さん

![]()
1984年9月、朝日新聞静岡支局に新聞や雑誌の活字を切り張りした、匿名の告発状が届いた。静岡県警の警察官による連続婦女暴行事件を告発する内容だった。ある警察幹部から呼び出しを受け、出かけていくと、「黒に近い灰色だと思うけど、ここは書かんといてくれ」と言う。「そういう訳にはいきませんよ」と断って帰って来たが、当然警察からの情報は一切出てこない。そこで、一日200ほど聞き込みを続けていくうちに、被害者もしだいにわかり、10日間ほどで11件といわれる事件の内8件についてその詳細を調査し、先輩と一緒に報道した。
入社2年目、「調べて明らかにする」という記者としての基本を、身をもって体験した事件だった。翌年の新年の訓示で、静岡県警の本部長から「奥田たちとは話すな」というかん口令を敷かれることにはなったが。
![]()
7人兄弟の5番目。高校は国立の進学校で、兄弟が多いこともあったので大学も当然のように国立に進むことを望まれていた。しかし、中学生の時に読んだ「草の花」以来傾倒していた福永武彦氏に、師事してフランス文学を学びたいと、福永氏が教授を務める学習院に入ることを決意。そのことを親には言わずに浪人し、アルバイトをして学習院の学費を稼ぐことにした。
浪人が決まった4月から、家庭教師などでのアルバイトに精を出していたが、その年の8月、福永氏が亡くなってしまう。目標を失い、アルバイトで貯めたお金を使って毎晩渋谷界隈で痛飲する日々が続いた。
そんなある日、行きつけの居酒屋、井の頭線ガード下の「細雪」で一人の初老の男性に会う。朝鮮半島生まれのその人は、陸軍中野学校の出身で戦時中はロシアなどでスパイ活動をしていたという。戦後引き上げて来たが、その時には恋人の行方は知れず、一人寂しく酒を飲んでは声を上げて泣いていた。そんな彼に、「今度また戦争が起こったらどうする?」と聞くと、「天皇陛下万歳と言って、また戦争に行く」という答えが返って来た。
この男性を始め、酒場に集う人たちと酒を酌み交わし、言葉を交わすうちに、これまで文学作品の中に見てきた英知よりも、生身の人間の生き様や現実社会の出来事の方がずっと迫力があるし興味深いと考えるようになる。そこで、フランス文学からジャーナリズムに方向を転換し新聞学科に入学。その時から新聞記者になると決めていた。
![]()
静岡を皮切りに、函館、横浜と支局を異動。普通新聞記者というのは、数年毎にいくつかの部署を経験するものだが、彼の場合はずっと事件担当。毎日寝る間もないほど忙しい日々が続いた。
横浜時代には、協力して取材を重ね、リクルート事件を発掘し、その全容を明らかにして報道したチームの一員でもあった。この事件は朝日新聞の大スクープになったが、抜いた、抜かれたということではなく、「世の中が動くような記事を書きたい」という彼の思いが結実した事件の一つだった。
その後週刊朝日編集部に異動して、湾岸戦争やオウム真理教事件など事件取材を中心に活動。その後は外報部に異動してマニラ支局に勤務し、その間フィリピンだけでなく世界各地に派遣され、ペルー日本大使公邸人質事件など、大きな事件を扱うこととなった。
事件報道の現場に長くいると、「勘違いしている人」によく出会うという。危険を省みないで、紛争地帯や事件現場に踏み込むことを勇気や記者としての心意気と思い込んでいる人が多い。
湾岸戦争の時には、ニューズウィークの特約記者が国境を越えてイラクに入るというのをフランス人記者らと必死に止めた。それでも彼らは振り切ってイラクに入ったが、結局は4人の内2人が殺害されるという結果になった。ペルーの日本大使公邸人質事件でも、人質交渉に影響を与えかねない無謀な取材をするジャーナリストもいた。
「準備と根回しを怠らず、石橋を叩いても渡らないくらい用心深く、ダメだったら潔く撤退する」というのが記者としての基本と考える。
![]()
これまで事件記者として、週刊誌の記者として、そして外報部の特派員として、一番多く書いてきたのは間違いなく事件に関する記事だ。しかし、一番印象に残っているのはと言うと、廃線が決まった、北海道のあるローカル線の取材をしていたときのものだという。
廃線前の沿線の様子を伝えようと、長万部と瀬棚をつなぐ瀬棚線の茶屋川駅を訪れたが、そのきれいな駅舎に驚いた。駅には1冊のノートが置かれ、そこに駅舎を管理する人への感謝の言葉が書かれていた。「いったい誰が管理しているのだろう」と取材を始めると、一人の老女が、農家の仕事の合間に、毎日駅舎の掃除をしているという。元々は夫と二人で始めたボランティアだったが、夫が亡くなった後も、彼女は一人でそれを続けていた。冬は朝の4時から雪かきをし、雪が消えれば花を植えた。
廃線の日も、最後の列車を見送るその「ばばちゃん」を取材し、記事にした。
ここまで真剣な表情を崩すこと無く話していた彼だが、この話をしている時には、柔らかい笑顔が垣間見えた。「ばばちゃん」の姿と、田舎町の小さな駅舎の様子を思い浮かべていたのかもしれない。
![]()
函館時代、朝日新聞の購読者数は、地元北海道新聞の足元にも及ばなかった。湾岸戦争の取材の時にも、誰も朝日新聞なんて知らなかった。取材して記事を書くのにそんな権威は不要だった。
横浜時代、川崎の竹やぶで1億円の札束が見つかった時、記者クラブを無視して落とし主の記者会見を設定し、500名ほどのマスコミ関係者を集めた。ある記者クラブのメンバー数人から抗議があり、除名要請が出されたが、ほかのメンバーの協力で、最終的には除名要請は否決された。
「アサヒパソコン」の編集長時代、個人情報保護法案が議論されていた時に、その会合や記者会見等に出席していたパソコン誌が他にひとつもなかったことに失望感を隠さない。
こう書いていくと、まさに風貌通りの、熱い、反権威主義、反体制の人というイメージが沸くが、話している本人を目の前にすると、少し印象が違う。
「地方には地方の文化がある」ということ、「調べて明らかにする」ということ、「事件は予測できない。目の当たりにした事実を伝える」ということなど、記者としての姿勢は常に基本に忠実。スタンドプレイで権威主義を批判したり、体制を非難したりするようなところは微塵もない。多くは語らないが、これまで各所で軋轢を引き起こしたとすれば、それはまさに、ジャーナリストしてしごく真っ当なことをやろうとしていただけなのだろう。
こちらが相槌の中で時に口にする刺激的な言葉を、きちんと丁寧な物言いに直しつつ、静かな口調で淡々と話す姿に、むしろ記者としてのプライドを見た気がする。
「体力勝負はもう難しいし、活字離れという社会情勢の中で新聞社自体も変化していくだろう」。
これまで時間のすべてを仕事に費やしてしまったことへの後悔もあり、これからは記者である前にまず人としてちゃんとしたいと思うという。新しい目標がすでにそこにあるのかもしれない。
「仕事は2番目」というのが、最近よく若い人たちに言う言葉だ。
左上:初老の男性と出会った居酒屋「細雪」
右上:瀬棚線茶屋川駅(当時)
左下:朝日新聞東京本社
右下:中学時代から傾倒していた福永武彦の著書「草の花」
インタビュアー/写真:堀込多津子

奥田明久(おくだ あきひさ)
1983年、上智大学新聞学科卒業。朝日新聞社に入社し、静岡、函館、横浜支局で主に事件担当記者として活動。横浜支局時代には、リクルート事件を横浜・川崎両支局スタッフとともに発掘、取材。潜水艦なだしお事故や坂本弁護士一家失踪事件などを担当する。90年に週刊朝日編集部に移り、事件取材を中心に活動。湾岸戦争やオウム真理教事件などを取材する。その後、外報部に異動し、96年から99年までマニラ特派員。アジア太平洋経済協力会議(APEC)や東南アジア諸国連合(ASEAN)、アジア欧州会議(ASEM)などの取材のほか、ペルーの日本大使公邸人質事件、グアムの大韓航空機墜落事件、スハルト政権交代時のインドネシアの取材など、フィリピンのみならず国際会議、国際事件取材を手がける。帰国後は、週刊朝日副編集長として米国テロ事件を担当。以後、アサヒパソコン編集長、出版業務部長を歴任し、2005年11月からアサヒカメラ編集長。







