今月の小僧 第18回 栗山雅則さん

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江戸時代、自由が丘を含む目黒区のこの一帯は天領或いは寺社領だった。近くの鷹番は将軍家が代々鷹狩り場としてきたところで、落語「目黒のさんま」の舞台でもあり、それが未だに地名として残っている。
隣の衾村、その後碑衾村から碑衾町へと変わるこの辺りは、比較的豊かな農村地帯だった。
1000年続く栗山家の総本家はこのあたりの領主で、元々は武家だったが、北条側についた戦で豊臣に敗れ、その後は刀をすてて農家となった。時代の流れの中で名主、村長、町長などを歴任。総本家とそこから分家していった家々を合わせ現在栗山姓の家は200世帯ほどあるという。
1927年開校の自由ヶ丘学園にちなんで、地名は自由ヶ丘へ。ちょうどその頃東急電鉄が大井町線の延伸や、東横線沿線の開発に力を入れ始めた時期でもあり、栗山総本家を中心に当時の地主さんたちは、自分たちの土地を出し合い、広い道路を整備し、区画を整理して開発に備えた。こうした将来を見越した努力が、今の自由が丘発展の礎となった。
「私の家も分家ですが、便利で住み易い住宅地ができて、良い人たちが集まり、その方々を相手に事業ができる。ほんとうにご先祖さまのお蔭ですよ」という彼にとって、地元で暮らし、地元で事業をするのはしごく当たり前のこと。地元を守り育てることこそが、将来にも繋がると考えている。
ちなみに、「○○が丘」という地名や駅名は、自由が丘から始まったとのこと。だから「若い人たちが『が丘』って呼ぶのは、実は正しいんですよ」という。
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中学校から大学までテニスに熱中。卒業後は一般企業に就職したが、テニスへの思いは途切れなかった。4年ほどで会社を辞めてテニス界に復帰。選手をしながらコーチを目指し、自由が丘インターナショナルテニスカレッジ(JITC)を開校。テニス界を変える大きな革命がまさに起ころうとしている時だった。
ちょうどその頃、欧米ではラケットの素材が木製からグラファイトという炭素繊維に移行し、ラケットの面が大きい“デカラケ”が登場。コートもクレー(土)からハードコートへと変わるなど、テニスの大転換期だった。マッケンローやコナーズ、ボルグが活躍する時代で、彼らのプレースタイルもラケットやコートに合わせて力で押していくようなものへと大きく変わっていった。
一方日本では、従来どおり木製のラケットで、流れるようなスイングでボールを打つ、「お蝶夫人」のような、これまで通りのテニスからなかなか抜け出せず、欧米との力の差は歴然としていた。
なんとか日本にも欧米流のテニスを取り入れたい。特にジュニア世代にその技術を伝え、世界に通用する選手を育てたいと、一からコーチ学を学ぶため渡米する。
「カッコよく言えば、新しい風を日本のテニス界に吹かせたいと思ったんですよ。実はただのミーハーかもしれませんが、そういう新しいものに敏感であることも必要でしょ。」まさに80年前のご先祖さまと同じ進取の気性が、ここに受け継がれているのかもしれない。
開校から25年、今JITCには1000名程の生徒が通い、中には世界のトッププレイヤーを目指している人がいる。
一方、以前からインドアのテニスセンターを作りたいという夢があったが、アメリカの友人たちのアドバイスもあり、テニスだけではなく、プールやフィットネススタジオ、マシーンジムなどを備えた総合的なスポーツクラブ「リバティヒルクラブ」の開設を目指すことになる。 しかし、ちょうどバブル景気が終演を迎える時期、しかもフィットネスクラブの経営は全くの未経験ということもあり、難色を示した銀行等からの融資が間に合わず、しばらくは持ち出しの期間が続くという、胃が痛くなるような体験もした。 その後なんとか融資も取り付け、自由が丘周辺に住む企業のトップやセレブリティなど、優良な顧客も獲得して、「リバティヒルクラブ」はそのブランドを確立。事業の中枢を担うまでになった。
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JITCの校長、「リバティヒルクラブ」を運営する株式会社リバティヒルや、それ以外にも、旅行業・不動産業などを多角的に展開するリバティヒルグループの代表として忙しい日々を送る彼に、仕事の配分を聞いてみた。
30%がリバティヒル、30%がJITC、そしてなんと残りの40%がボランティア活動との答えが返ってきた。
ボランティア40%の内訳は、20%が「チーム自由が丘」などのテニス関係、残りの20%がリサイクル燃料の無料バスや商店街など地域関連のもの。「テニス」と「地元」、この二つへの献身は、並大抵のものではない。
「よくそんなにいろいろなことを同時にやれるなあと言われるんですけどね」、それは多くのスタッフが現場を守ってくれているから。ただ「任せてはいるんですが、つい口も出しちゃう」そうだ。「モチベーションを上げることはあっても、絶対下げないようにすること」を心がけ、従業員には常に自分から言葉をかけることにしている。
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40%がボランティアという中でも大きな部分を占めるのが、NPO法人「サンクスネイチャーバスを走らす会」の活動だ。これは、自由が丘を巡回する地域バスで、家庭やレストラン等で使用されたてんぷら油をリサイクルしてできた燃料(V.D.F.)を使って走る無料バス。現在は2つのルートでおよそ30分に1本のスケジュールで巡回している。
このバスの運営には、94年発起人4人での構想時点から関わり、97年に運行スタート。その後支援者を増やして、03年にはNPO法人の認証を取得。現在も会長を務める。
地域活性化のモデル事業として、全国から見学に訪れる自治体関係者なども多く、目黒エリアのNPO活動を表彰するNPO大賞も獲得するなど、NPOとしては比較的大きな事業展開をしている方だが、それでも最大の難問は資金集め。
「地域や環境のためにこんなことをやっています。(商売や事業への)メリットはほとんどありません」と真正面から訴えながら、年間の維持費2000万円ほどを支えるために、地元の企業や商店など、常に新たなサポーターを獲得すべく、日々奔走している。
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これからの夢は何かとの問いに、「会社を大きくしたい」というしごく真っ当でシンプルな答えが返ってきた。それには部下を育て、権限を委譲していくことが重要で、つまりは自分の右腕となる有能なNo.2を各部門で確保することだと考えている。
これまで、「出すぎた杭は打たれない」をモットーに、強烈な個性をテコにして地元の利を生かしここまで事業を推進してきたが、次のステップを踏み出すのには、優秀な人材の確保が一番重要ということなのだろう。
それでも、「つい口をだしちゃう」性格は変わりそうもなく、これまで同様「出すぎた杭になる」がモットーから外れることはなさそうだ。これからも、地元との確かな繋がりを活かしつつ、テニスやスポーツクラブで培ったノウハウと人脈を絡めた事業展開が要であることに変わりはない。
最近歴史が面白いと言う。地元の長老たちとの付き合いから自分や一家のルーツを辿ることに興味を覚え、地域全体の歴史を知ることでますます地元への愛着が沸いて来たのではないだろうか。20%のテニスへの献身も、20%の地元への献身も、当分変わりそうもない。

左上:リバティヒル外観
左下:サンクスネイチャーバスマップ、停留所
右:リバティヒル施設、自由が丘インターナショナルテニスカレッジ施設
インタビュアー:堀込多津子

栗山雅則(くりやま まさのり)
リバティヒルグループ代表。自由が丘インターナショナルテニスカレッジ校長。 大学卒業後コーチ学を学ぶ。海外研修などを通して最新のテニスを修得し、ジュニア育成に励む。(社)日本テニス協会強化委員、ワールドユース女子監督、(社)日本プロテニス協会常任理事などを歴任。現在(社)日本テニス事業協会事業委員長を務め、トップジュニアの育成に力を注ぎ、地域や日本テニス界に大きく貢献している。またNPO法人サンクスネイチャーバス会長を務め、環境問題や地域に根差した活動も積極的に行なっている。







