稲次船長の地中海航海記
イスラエルのヘルツェリアと言うマリナはハイファから4時間くらい南下する距離にある。エジプトのポートサイドを朝の10時頃に出発夜間航行をして、翌朝早くにヘルツェリアに入港する。夜明前にイスラエルの領海に入るので、エジプト行きに参加した60隻ほどの船団のトップを走る我々はイスラエル海軍の厳しいチェックを受けた。暗闇で減速命令を受け、サーチライトに照らし出され、船長は眠たい顔を出して船舶用のVHF通信機をを使って多くの質問に答えなければならない。船名、船籍、船長名、同乗者全員の国籍、何の為に何処に向っているか。出発に先だって充分説明を受けていたので覚悟はしていたが、いざとなると相手の見えない暗闇でこちらだけ照らし出されテキパキ応えるのは結構大変だ。
上手く切り抜けてマリナに接近する頃には夜が白んでくる。やれやれと思う間もなく今度はポリスのボートが全速力で接近、停船を命じて、全員のパスポートを見せろと言う。海軍も警察も彼等の態度、言葉使いは飽くまで丁重で、「ご協力有難うございました、気をつけて入港して下さい」と言った調子なので多少は救われる。もしも「おい、こら」でやられたら堪らない。戦時体制の国なので仕方が無いと割り切って恭順の構えを保つ他無いのだ。
ヘルツェリアは実はラリーの公式の終点だ。ここでグランドフィナーレの大宴会を開いて解散となる。あちこちで開催された公式の宴会は男女夫々ネクタイ、ロングドレスとなる。食前のカクテルパーティーも楽隊付きで派手にやる。そこには各国の大使、公使、又は領事などが招待される。レバノンではフランスの大使、アメリカの代理大使も何処かで出席していた。日本人は3人だけの参加だし、大使館の誰かがヨットクラブのパーティーに足を運んで貰えるとはとても思ってみなかった。ところがこの最後の港で、ハッサンからの使いが来てカクテルパーティーの始まる前に急いで来てくれと言うのだ。何事ならんと思って駈け付けると、何とイスラエル駐在日本の特命全権大使にいきなり紹介された。時間がないのでゆっくり出来ないが、珍しい日本人が来ているとの誘いだったので運転手を急きたてながら駈け付けたのだと。我々3人は興奮してしまって、大使から、イスラエルに関する貴重なお話を伺う絶好の機会であったのに、自分たちがどうしてこの船団に参加するに至ったかと言う様なこちらのお話ばかりになってしまったが、終始笑顔を絶やさず、質問をされたり、我々の長口上を熱心に聞いて頂いた。小艇にも御足労願い、船の装備など御説明した。先約で御忙しい中を無理して来て下さった事を嬉しく思い感謝した。程なく帰られたが、パーティーの間中誰彼となく日本大使が来てくれたと自慢げに話した。何だか託児所に預けれている子供の所に親が現れた様な感じで急に心強くなった。
今回の参加者の中には片言の日本語を喋る人が沢山いた。「私は佐世保に住んでいました。田舎者ですよ」とにこやかに話す品の言い老人は海軍で終戦直後佐世保に駐在し掃海艇で機雷除去の仕事をしていた由。その奥さんがフランス人で一緒に日本に住んでいたというが上品な仕草まで昔風の日本婦人のようで「今晩は」等と腰をかがめて言う時はすっかり日本人だ。他に長崎開成高校で只一人の女性教師として英語を8年間教えていたと言う単身女性はそれこそ何でも良く喋るので驚いた。サンフランシスコから来ていたマイクと言う取っ付きの悪い男性は、医者になった息子が日本の女性医師と結婚して子供が二人出来てとても幸せにしている由。嫁さんの両親が一年に一回は遊びに来てくれるので嬉しいと言う。一番大きな19mのモーターヨットの船長はカークダグラスかクリントンの様なイケメンで日本語を話す。父親が東京駐在武官だったと言うが、高校時代を日本で過ごした、生涯で一番想い出深い国だと言ってにこにこしている。日本を知る人が増えている事が感じられて喜ばしい。
我々は何と言ってもこの団体の中では東洋から来た珍種なので、丁重に扱われるが、それだけに言動には多少なりとも責任を感じてしまう。特に歌をせがまれたりすると上手く歌いなれたものでないといけないので「さくら」とか「荒城の月」になってしまう。若い頃にもっと日本的なものを沢山練習しておけば良かったと思ったりする。
今年は日本出発前からハッサンの特別要請があってキプロスの大統領のパーティーでは日本の着物を着て歌ってくれという。家内と二人仕方が無いので浴衣に帯を締めてズボン・スカートと靴のまま舞台に上った。そして二曲とも歌った。日没後の薄明かりで見てくれは何とかごまかしが利いた様だ。歌い終わると大拍手の後、舞台の裾では知人のみならず言葉を交わした事もない人達から熱い握手とキッスの連続で我ながら感激、浴衣を持って来た甲斐があったと家内と話した。その後も三回ほど歌わされた。








